梦幻如真-天下第三逆贼传-第1部分
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历史的黑洞
第一篇:明智光秀生死之谜
(本文末尾附图:明智氏的日光东照宫)
本能寺之变的真犯人,以及明智光秀生死之谜
(注意:本节内容未经作者允许,严禁网络引用。)
以下为历史学者之观点,非本书作者原创。后附文章未经允许请勿转载。
如果你在日本居住,会经常听到人们谈论以下种种事情:源义经其实就是成吉思汗、上杉谦信原来是位姬武者、丰臣秀吉并未能杀死明智光秀、德川家康其实有两个人、天草四郎时贞原来是丰臣秀吉的孙子,等等。这些都是无稽之谈吗?如果你在日本大学就读,问随便问一位日本教授好了。想必,你的教授会给你很有趣的答案。
本书以国际主义的立场写成。书中既有日本的真实历史,也有揭露日本丑陋的侵略史。所以,作者并不关心受不受欢迎的问题……啊,不谈这个,本章的主题是:明智光秀的生死之谜。至于本能寺之变的真犯人之谜,请看后附关联文章(啊,因未得允许,没有翻译)
本能寺之变,明智光秀杀死了即将统一天下的织田信长。因为这件事情,明智光秀恶名昭彰,在其后的桃山时代成为了禁止议论的人物。一切关于明智光秀的事迹功绩均被抹杀,真到明治维新以后,才有学者开始着手研究他的事情。明智光秀其人一出生便是恶魔化身?他为什么如此受丰臣秀吉憎恶?他为什么要发动本能寺之变?
还有,他真的在本能寺之变后的山崎之战中身亡了吗?
我们来一下,历书中所记载,丰臣秀吉所宣布的明智光秀死因:明智光秀在某村庄附近,被数十个暴民袭击而死。啊,好悲惨!武艺高强的勇士,竟然死在农民之手。这里,可就引出最大一个疑点了哦!当时明智光秀身边有三千骑兵,更有数位武艺高强的忠诚武官(可儿才藏、沟尾胜兵卫等人,他们联手还打不过几个农民?)。再说了,几十个暴民要能有这本事,那等于是桶狭间之战的再度上演。丰臣秀吉,他干嘛不说自己用两根筷子就把明智光秀给夹死了呢?
第二个疑点,是明智光秀的尸体。准确的说,没找到明智光秀的尸体,只找到一个腐败的脑袋。既然腐败了,又怎么知道他就是明智光秀呢?难道古代也有DNA鉴定术?对于这颗人头,历史学家的看法是不足取信。很可能,是丰臣秀吉为安定军心的捏造。历史上这种事情,其实时有发生。
正确的说,明智光秀死于丰臣秀吉之手这种说法,最大的支持点仅是明智光秀这个名字没有再次在历史上出现。然而,真的再也没有出现过了吗?
现代,历史学家已经找到了以下证据,证实明智光秀不但活着,更积极参与过德川幕府的统治。
明智光秀幽灵现身之证据一:比叡山某寺庙中留下记载,明智光秀于庆长二十年曾经在此寺进行过‘奉寄’。奉寄的石灯笼留存至今,上面刻的是:「慶長二十年奉寄進願主光秀二月十七日」。
明智光秀幽灵现身之证据二:大阪本德寺中立有明智光秀的牌位,上面记有「当寺開基慶長四巳亥」字样。换句话说,庆长四年明智光秀曾经去该寺进行过奉寄。由于本德寺中存有明智光秀唯一一幅肖像画,所以该证据较为可信。
以上提供的年份,庆长四年是关原大战的前一年,庆长二十年是大阪夏之战役的年份。明智光秀分明早就死去,如何会留下奉寄的资料?作者我从小怕鬼,只觉身边阴风飕飕……庆长二十年的说?明智光秀是不是象孙猴子一样长生不老的?怕怕,日本学者们提供的最新考证结果:这位明智光秀他竟然……最少活了一百二十岁!!!这家伙,难怪人家都叫他‘天下第一恶人’,真够恶的(语出于一名心理不平衡者)!
然而史实就是史实。不能忘记,本书的宗旨就是发扬史实。所以即使有人真的回到了四百年前的古代,我也只好照写不误;明智光秀真的参加过吉田郡山大会战、严岛之战、桶狭间之战……我也只好照写不误;一五八二年以后明智光秀去了哪里?做了什么,我也只能在书中,老实的照写不误啦!
不过在本章,我们暂时还是以谈史实资料为主。玩过游戏‘信长野望’的人也许知道,德川家有个神秘的武将叫‘天海’。游戏中关于天海的介绍大概是这样的:此人被认为就是明智光秀……(原文我早忘了,信长的第几部我也忘了,肯定是有写)。
不错。史学家通常的意见,德川家的这位‘黑衣宰相’,就是明智光秀本人。当然在本书的正文中,还会对德川家的事情提供新的说法。
我们先来看看天海是谁。天海僧正,此人前半生完全不可考。关原大战之前突然出现在德川军中,毫无战功、碌碌无名的他就这么成了德川军的副统帅。大战之后,更是掌握了德川家的军政大权,协助开创德川幕府,自己则受朝廷封赏,平步青云的变成了‘僧正’(僧正是佛教最高官位,全国佛徒的最高领导者)。
天海就是明智光秀的说法,并不只因为他们同样是少有的文武全能之帅才。我们说明智氏和德川氏共同治理天下,还有以下依据:
第一,德川幕府第三代将军家光,很可能是明智光秀的孙子。为什么这么说呢?‘家光’这个名字本身有问题。名门之子的名字都是拜领自家族中近亲的名人,德川家所有同辈人的名字都可以考证来源,唯独德川家光的‘光’字无源可证。严肃的史学家也无法反对这种观点:德川家光的‘光’,拜领自明智‘光’秀。这样看来,德川家光的‘母亲’一直不把他当亲子看待,时常嚷着要废他另立弟弟为将军,也就不足为怪了。当然,说德川家光是明智氏血脉,我们后面还有证据,请看下去。
第二,日光东照宫,这个著名的宫殿世人都知道吧,它是德川家第三代将军德川家光为纪念祖父所建的。这个祖父,通常认为是德川家康。可是奇怪的是,德川家康在别处另有墓穴。那么东照宫里供奉的灵骨不是德川家康?或者,德川家光的祖父根本就是另有其人?想了解这件事情,我们一起走进东照宫去看看就清楚了。呀,这是一座伟大的宫殿!咦?宫殿里面怎么隐约到处都有明智家的家纹?仔细看好哦,阳明门前的武士为什么是明智武士?阳明门外为什么有桔梗纹旗?不得了,连钟楼上也找得到明智家纹,外面的瀑布叫什么?‘明智平’!更要命的是,在德川家光的‘祖父’德川家康的纳骨堂外,在东照宫的正中央竟然立着鹤和龟的标志性雕刻。鹤是德川氏的标志物,出现在此关不奇怪,可是龟是什么?龟……这不是明智氏的标志物吗?还记得本书正文中提过的明智光秀的童谣诗吗?“鶴と亀がすべった”!史学家是这样理解此诗的:“すべった”有滑倒的意思,也有统治的意思。鹤是德川氏的标志物,龟是明智氏的标志物。如果理解成鹤和龟共同统治,那不就是德川和明智氏共同治理天下的意思吗?(这些人的语文成绩一定比历史成绩还好,这么会咬文嚼字,本书作者可是甘拜下风!)
第三,德川家光的乳母是春日局。春日局是谁?小名阿福,她乃是斋藤利三的女儿,天下第一恶人明智光秀身边最亲近的女人之一。史书记载,当春日局与天海初次见面时,平伏于前称:「お久しゅうございます」(大人好久不见)。喂喂小姐,你是不是和我一样才学会日语?这可不是第一次见面时应该说的话呀!不可思议的是,德川家光竟然把春日局当成母亲一般奉养尊重。春日局经常参与政事、发表意见,俨然一副德川幕后领袖的模样。在她死的时候,德川幕府更是下令举国服丧。瞧瞧,除了天下之国母,世上还有谁配享受这个等级的待遇?许多史学家于是坚持说道,春日局本来是就德川家光的生母嘛……
总结之,德川幕府是由三个家族共同统治的,这世人皆知。实际上,把它理解成明智氏和德川氏的共同统治,似乎更加准确。中央幕府和两川体制(中央是明智,两个德川氏),这怎么有点象毛利家族的两川体制?哈哈~~。
以下为引文,太长了请喜欢历史并且有耐心的人看吧。其他人可以轻轻飘过了。
明智光秀は戦国の世を生き抜き天下の行方を見守った!
これは私Minstrelが史実、異説、風説、伝説等を集め、整理し、推理を加えて考察した歴史撸Г婴扦埂ee覚したり鵜呑みにして勘摺い蛞黏长筏皮夂韦伪T^もありませんのでそれぞれの解釈、撸Г有拇蔚冥扦獦Sしみ下さい。楽しくなくても、これまた何の保証もありません。
前書き
過去という永遠の闇に消えてしまった事実がある。この永遠の闇にライト当て、わずかに見えたものを組み合わせ判断したものが歴史である。闇すべてを照らすことは出来ない。過去に行けばいくほど深い闇に椋Г钉丹欷皮い搿=Mみ合わせ方は他にないだろうか?他の判断はないだろうか?ライトに照らし出されたものを見てみよう。意外な歴史が浮かび上がるかもしれない。その判断は個々にお任せしたい。
本能寺の変
天正10年6月2日払暁、破竹の勢いで天下を握りつつある織田信長が部下である明智光秀の址搐摔瑜昃┒&;#12539;本能寺に倒れる。
羽柴秀吉ら信長の部下たちは各地に散り、信長自身もわずかの手勢しか連れておらず、光秀は信長打倒の絶好の機会を生かしたのである。だがこの後、毛利に苦戦中だった秀吉がアッという間に和睦をまとめ、京都に戻り、明智勢と合戦、光秀はわずか10日余りで討たれてしまう。最期は農民に竹槍でつかれるという悲惨なものだった。光秀を討った秀吉がやがて天下を取る。
本当に光秀が犯人か?
言うまでもなく、本能寺において主君を討ったのは明智光秀である。ほとんど常識である。しかし、本当にそうだろうか。いくつか疑問点を挙げておく。
事件は6月1日夜明け前に起こっている。時刻は午前4時頃で、出火炎上したのは午前7時から7時半と推定される。
ところが光秀が上洛したのは午前9時頃という説がある。つまり、事件当時光秀は現場に到着していなかったというのである。ならば光秀はどこにいたのだろう。これに関しては残念ながら正確な史料は残っていないのでわからない。
事件の3日前の5月28日(この年の五月は29日まで)に愛宕山に登っていることは確かである。一般には翌日に下山したように思われているが、権中迹陨娇蒲越Uの日記『言経卿記』によるとこの日はどしゃ降りで下山は不可能であったという。従って、下山は6月1日になってからということになり、この後、丹波の亀山城に戻り、1万3千の兵を率い、2日早くに京に入るのは不可能だと思われる。
これについては真相はよくわからない。が、本能寺の変についてナゾが多いということは言えるだろう。
明智光秀の動機
明智光秀は、織田家に中途採用された人物であるが、頭がよく、インテリで、同じく中途採用の秀吉と出世街道を爆進中であった。
主君&;#12539;信長を討った本能寺の変は光秀の個人的な恨みによるものであるとよく聞くが、果たしてそうなのであろうか。古来から信長襲撃の引き金として語られる話しは一つしかなく、それは家康の接待役を務めていたが、信長が満座の中で光秀に屈辱を与えたために面目を失ったというもの。これは江戸時代の入ってから成立した川角(かわすみ)の『太閤記』にのみあるという。もちろん川角『太閤記』は史料価値のあるものだが、これだけでは説得力に欠けるだろう。戦国時代に関する情報を得る際、そのほとんどは江戸時代以降に書かれたものであり、比較的近い時代に書かれたものもあれば、それらを基に書かれた二次的な史料、単なる小説もある。全部を鵜呑みにすると混乱を招くだけで、原典の分析を伴った研究が必要である。しかし実際は様々な史料が混ぜこぜになって使用されている場合が多く、そのため多くの説が乱立することになる。(このペ袱韦猡韦猡饯我护膜猡筏欷胜い
生母を見殺しにされた恨みが直接の原因であるとも言われている。だが、信心深く、慎重で頭の良いな光秀が一時の激情に任せ、安直な行動に出るだろうか。用意周到な光秀が、多少の計算摺いⅳ盲郡摔护琛ⅳ饯吾幞ⅴ盲趣い﹂gに討たれてしまうようなことをするとは私は考えにくい。だが事実、光秀は行動を起こした。
実